不眠の子守唄

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あだち充『H2』ラストの考察①

あだち充の『H2』は本当に名作だと思っているのだが、名作を名作たらしめる所以の一つは、人によってラストの解釈が分かれることにあるのではないかと思う。

ここでは表題通り、あだち充『H2』のラストについて、私なりに考察していきたい。

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エンディングに至るまで

大まかにラストに至るまでのあらすじを説明すると、次のようになる。

 

・ひかりは英雄と交際しているが、ひかりの母の死などをきっかけに、ひかりは比呂に対して恋愛感情を持っているのではないかと思い始める。比呂も春華と事実上交際しているが、ひかりに対する感情を捨てきれていない。自分の初恋の相手がひかりであったが、それに気づいたときにはすでにひかりは英雄と付き合っていたため勝負できなかったことを告白する。

 

・英雄はひかりに対して、比呂との勝負の後に、ひかりにもう一度選ぶ権利を与えるといい、それが比呂の耳にも入ることとなる。そして勝負の日を迎える。

 

・勝負には比呂が勝利するが、この勝負は勝者がひかりを手に入れるものではなかった(英雄は比呂に勝つことでひかりを渡すまいとしているが、それは何も理解していない)。

英雄「おれは……何もわかってなかったのか……」

ひかり「わかっていなかったのはわたし。最初からないのよ、選ぶ権利なんか……」

と言い、英雄ーひかりの関係は決定的になる。比呂ー春華の関係もここで確定する。

 

この「最初からないのよ、選ぶ権利なんか……」というひかりの台詞はエンディングの解釈に大きな役割を果たす言葉である。そのまま読めば、「試合結果に関係なく英雄ーひかりの関係は確定していた」という意味であり、そのような解釈が可能である一方で、少し異なる解釈も可能だと考える。 

試合前夜

ここで注目したいのは、試合前夜のひかりと比呂の行動である。(320話)
 
ひかりは、明和第一の宿舎を抜けて散歩に出る。そこに、比呂もひかりを探して出会うことになる。以下がその会話シーン。
ひかり「とうとう……戦うんだね。」
比呂「どっちが勝つとおもいますかね」
ひかり「想像できないなァ、負けたヒデちゃんは。」
比呂「負けたおれは想像できるのか。」
ひかり「昔から何度も見てきてるもの、泣いてる比呂は。去年の夏だって。ここで……」
「去年の夏」というのは、甲子園で負けた比呂が涙を流し、ひかりに抱かれるというシーンである(213話)。なおこのシーンは、比呂だけがひかりの行き先を知っていることの理由となる場面である。
 
ここで「去年の夏だって。ここで……」という台詞は、「今年の夏」もこの場所で同じようになることの示唆である。つまりここで、ひかりは自分が敗者になびくことを予感しているのである。あだち充マンガの女性キャラは、「ラフ」の小柳ー芹沢の関係のように「敗者」を選ぶことが多い。
 
なお、結末のネタバレを先にすると、最後に英雄とひかりが抱き合うのはこのシーンと同じ場所である。
 
「負けた英雄が想像できない」という台詞は翌日の試合中でも繰り返される言葉であるが、この言葉は、「負けなかった英雄」とひかりの関係の継続が想像できないことへの不安から繰り返される言葉であろう。
 
ひかりが英雄と比呂との間でなおも揺れていることがわかるのは、次の台詞である。
ひかり「相談したいこといっぱいあったのになァ。」
これは、ひかりの亡き母についての台詞。
ここであえて「相談したいこと」がいっぱいあったというセリフがあるのは、「英雄をとるか比呂をとるか」がひかりの悩みであることが示唆されている。
 
ひかりが揺れていることを知らない比呂は、ひかりに、長い付き合いの幼馴染として最後に応援を要求する。
ひかり「口先だけでいいのね。」
比呂「そういってるだろ。」
ひかり「がんばれ 負けるな。」
比呂「OK。」
ひかり「がんばれ 負けるな。」
比呂(無音)
ひかり「がんばれ 負けるな。」
比呂「もういいって。」
ひかり「がんばれ 負けるな。」
はじめは「口先だけ」と言っているひかりであったが、だんだん感情が抑えられなくなり、四回の「がんばれ 負けるな。」を繰り返すことになる。
比呂「……ゴメン。」
この比呂の「ゴメン」の表すところは何か。
 
ところで、このシーンで比呂が今回ひかりに会いに来た理由は書かれていない。「ただ会いたいだけじゃダメなのか。」という台詞が書かれているが、これは比呂がひかりに会いに来た理由を英雄に対して答えているものであり、本心ではない
 
おそらく比呂はここでひかりとの関係に終止符を打つために来たのであろう。
 
この時点で比呂は「英雄が試合後にひかりに比呂と英雄を選ばせる」と言っていることをを知らないから、比呂自身はひかりに
「さよなら。」(285話)
と言われた時点で、決別されたと思っている(ここのシーンは「さよなら」以降で比呂とひかりが出会う初めてのシーンである)。
 
すなわち、比呂は、ひかりからの決別宣言をすでに受けていると思いながら、自分自身の気持ちの整理をつけるため(「さよなら」の返答をするため)、ひかりに会いに来たのである。
 
しかし、ひかりは比呂の予想に反して揺れ動くことになり(勝負の約束があったため)、比呂の終止符を打とうという試みは失敗してしまった。
 
そして、比呂はひかりを再び揺れ動かしたことを悟り、これについて「ゴメン」と謝ったのである。
 
そして、比呂自身も関係を清算できなかった。
 
ひかりは明和第一の宿舎に戻る。
ひかり「ヒデちゃん」
英雄「心配すんな、絶好調だよ。期待していいぞ、明日の試合は。」
ここで気になるのは、英雄の言葉を受けたひかりの表情である。
ひかりの表情の変化は春華に比べると非常に読みにくいため違う捉え方もあるだろうが、ひかりはこの場面で「心配すんな」と言われているのにもかかわらず不安そうな表情を見せる
 
ひかりは、英雄が「絶好調」で、比呂に対して圧勝した場合に、自分自身が比呂になびいてしまうことを恐れているのである。
 
そして、試合当日を迎えるのである。
試合の結果に4人の運命は託されながら。

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photo by Unsplash
 

エンディングの考察

試合前夜から、試合当日の場面に考察を移す。

 

第一~第三打席は、比呂が勝利するが、「真っ向勝負」ではなかった。

比呂と英雄の対決は「真っ向勝負」でないと意味がない。だから、比呂らしくないピッチングで英雄を躱した第一~第三打席の結果は問題とならず、第四打席のみが「最初で最後の対決」となる

4打席回ってくるにもかかわらず、事実上の1打席勝負を作り出したあだち充のストーリー構成能力は巧みである。

 

ここで、エンディングのルートは二通りになる。

①比呂が勝利

②英雄が勝利

 

①なら、英雄はひかりに弱さを見せることになる。それによって今まで互いの中に自分の居場所を見つけられなかった英雄ーひかりのカップルは、居場所を見つけて安定した関係となる。そして比呂とひかりの関係は清算される

 

ただし、②なら、去年の夏の延長上としてひかりは比呂になびくかもしれない。そうでないにしろ、ひかりと比呂の曖昧な関係は継続されることになるだろう。

 

比呂とひかりは、痛みを伴うものの①の結果で互いの関係を清算したいと思う一方で、同時に内心②の期待も捨てきれていない

 

それはひかりと雨宮のおじさんとの間に交わされる曖昧な会話が表しているし、以下の比呂の台詞もそれを端的に表す。

比呂「野田。あまりおれを信用するなよ」
比呂「ちくしょう……どうしてもおれに勝てって……か。」

これは比呂が負ければひかりとの関係が継続することを意識しているのである。

 

しかし、最終的に比呂は英雄を三振に打ち取る。

 

結局は、比呂とひかりは痛みを伴いながら関係の清算をできたわけである。

比呂とひかりだけが、勝利の喜びでも敗北の悲しみでもない涙を流す。 

 

最後の球は、スライダーのサインだったもののストレートであった。

比呂「あんな球…… 二度と投げられねえよ。」

野田「投げさせられたんだよ。だれかに……な。」

この「だれか」の力で、比呂は英雄に勝利できた。また、打席中には、「だれか」によって英雄のホームラン性の当たりはファールになることもあった。

 

では、「だれか」というのは誰なのか

 

議論の余地はあるが、あだち充マンガにおける「死」がどのような役割を持っているかを考えれば、おのずから「ひかりの母」であると見えてくる。

続くコマでひかりの母の写真が春華によってベンチから外されているのは象徴的だろう。

一つの読み方として、ここではこの解釈に沿って考察をおこなっていきたい。

 

このエンディングは、ひかりの母が生前最後に比呂と交わした会話が伏線となっている。

ひかり母「負けを認めることでスッキリしようとしてない?」
ひかり母「がんばれよ。ヒデちゃんには内緒だけど、おばさんは比呂ちゃんの応援だからね。」
比呂「英雄にもそういってんだろ。」
ひかり母「もちろん」

ここで、「がんばれよ」は、野球だけでなく恋愛についても言っているとみるのが筋だろう。

 

そこで、「英雄にもそういってんだろ」「もちろん」返すひかりの母の言葉は、一見すると、ひかりという一人の女性を取り合うものであれば矛盾しているし、比呂もそう捉えている。

 

しかし、ひかりの母は笑顔でこの言葉を言う。

 

この比呂との生前最後の台詞に嘘はないとみたい。

実際にこの言葉が矛盾しない場合は、英雄はひかりとの関係を継続させ、比呂は春華との関係を持つ、というエンディングをひかりの母がすでに見通していればである。

 

ひかりの母は、比呂を自分の息子同然にかわいがっていたが、それを「ひかりと比呂が一緒になることを望んでいた」と解釈はできないだろう。

ひかりの母は、比呂は春華との方が良いのではないかと内心思っていたのではないか。

 

しかし、比呂が春華との関係を持つには、ひかりとの関係をすっきりさせなくてはいけない。その際に、「負けを認めてスッキリするな」、すなわち負けという消極的な形でひかりとの関係を終わらせるのではなく、積極的な形で次のステップに踏み出せとひかりの母は言ったのである

 

ひかりの母の遺志もあって、比呂は英雄に勝利した。

 

これが、H2のエンディングである。

 

そして、英雄は自分がひかりを必要としていることを感じ、ひかりもそれにこたえる。

 

比呂は春華に多くの内心は明かさないが、いずれ通じることだろう。

 

こうして英雄ーひかり、比呂ー春華のカップルが確定し、「正規エンディング」を迎えられたというわけである。

 

しかし、そこにはやはり切なさがついて回る。比呂とひかりは、関係が終わったことに涙する。この切なさが、H2やあだち充作品の大きな魅力なのではあるが。

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