不眠の子守唄

書評ブログ。たまに洋楽や美術館。読書は海外文学・新書・古典etc.

アーレントの伝記を読みたいならこの一冊ー矢野久美子『ハンナ・アーレント』(中公新書)レビュー・感想

今日(4月11日)、中公新書公式アカウントがこんなツイートをしていた。

1961年4月11日、ユダヤ人大量虐殺に深く関わったアイヒマンの裁判がエルサレムで始まりました。政治哲学者ハンナ・アーレントが傍聴して発表した裁判記録は、論争に発展。矢野久美子著『ハンナ・アーレント』をご参照ください

というわけで、この本を本棚から引っ張り出して、レビューを書いて見ることにする。

ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)

ハンナ・アーレント入門としての伝記

この本が描くのは、その名の通りハンナ・アーレントの生涯である。

 

ハンナ・アーレントは、ユダヤ人であり、かつ女性であるという、二重のマイノリティを抱えて生まれた思想家である。

少なくとも彼女の著作は、彼女がユダヤ人であったというバックグラウンドを知らなければ、理解することはできない。

 

本書で紹介されているアーレントの幼少期のエピソードは興味深い。

たとえば学校の教師が東欧出身のユダヤ人の生徒たちなどに対して反ユダヤ主義的な発言をした場合、ハンナは、「すぐさま立ち上がり、教室を去り、家へ帰り、すべて詳しく報告するように指示されていた。」

母マルタは学校に抗議の手紙を書き、ハンナはその日学校に行かなくてもよく、「それがけっこう楽しかった」。

しかし、反ユダヤ主義的な言葉が子供たちからなされたものであれば、「家でそのことを話すのは許され」なかった。

 

子供どうしのことについては、自分で自分を守らなければなりませんでした。

本書は、そのようなアーレントの思想の背景となる、彼女の生涯について記された本である。

 

描かれるアーレントの交友関係

アーレントが長じて以降は、交友関係が多く描かれる。

アーレントの生涯を語るうえでの魅力の一つは、その交友関係の華やかさであろう。アーレントはドイツに生まれたが、ナチスの迫害から逃れてフランス経由でアメリカへと逃れる。

それは悲劇であるのだが、一面ではアーレントの交友を広いものにしている。

ハイデガーアーレント

アーレントは、ハイデガーの元・不倫相手としても知られている。そもそも、下衆な趣味をしていた男子高校生時代の私は、ハイデガーの不倫相手としてアーレントを初めて知った。言うまでもなく、ハイデガーは『存在と時間』を書いた20世紀最大の思想家の一人である。

だが、ハイデガーナチスに与し、アーレントとは袂を分かった。戦後、彼女らの間で交わされた「アーレント=ハイデガー往復書簡」からの引用は、元恋人同士の独特な雰囲気が出ていて興味深い。

ヴィタ・アクティーヴァ(『人間の条件』の独題)について

この本の献辞は空白のまま。

どうしてあなたに捧げることができましょう。

信頼するあなたに、

わたしは忠実であり続けるとともに、

不実でもあったのです、

どちらも愛のゆえに。

ベンヤミンの最期 

ハイデガー以外にも、交友関係として登場する哲学者は一線級である。

例えば、ヴァルター・ベンヤミンである。彼は「複製技術時代の芸術作品」で、芸術作品のコピーによって「本物」のみが持っていた「アウラ」(オーラ)が失われ、芸術様式が変化すると述べた。現代のデジタル社会においても読み返したい名著であるが、その彼もアーレントの知人として登場する。

だが、彼はアメリカへ亡命することができず、命を落とす。そのような悲劇も、アーレントの生涯に影を落とす要因となっている。

恩師ヤスパースとの交流

少し心がすさぶような交友関係ばかりを紹介したが、恩師・ヤスパースとの交流は心温まるものである。

ヤスパースも高名な哲学者である。

私は未だ読んだことがないのでコメントを控えておくが、教科書的には「枢軸時代」という概念を提唱したことが一番有名だろう。「枢軸時代」とは、紀元前500年前後の、イスラエル預言者ギリシャの哲学者、中国の諸子百家孔子老子など)、インドの仏陀が登場した時代である。この時代に、世界中で人類が精神の目覚めを自覚したとヤスパースは考えていた。

旧友ハンス・ヨナス

最後に、アーレントの大学時代からの旧友である、ハンス・ヨナス(ヨーナス)も紹介しよう。

彼はアーレントよりも有名でなく、それゆえ枕詞として必ず「アーレントの旧友」がついて回るような人物である。

だが、彼の思想はかなり面白い。紹介したいのは、「アウシュヴィッツ以後の神」である。彼は、アウシュヴィッツ」という人類史上最大の惨禍に際しても「現世への介入」をせずに沈黙を貫いた「全知全能の神」とは何者なのかを問う

ユダヤ神学なので、普通の日本人には理解できない部分も多いが、「神は存在するのか」という議論の変遷をたどりたい人には薦められる本である。

アーレントの交友関係を手掛かりに、20世紀の思想家について学ぶこともできる。本書は、そのようなことが可能となる良書である。

おわりに

ハンナ・アーレントの類書との比較

最後に、類書との比較を少ししておこう。

アーレントについては、多くの入門書が出ている。

今回紹介している中公新書の『ハンナ・アーレント』は、伝記に重点を置いた本であり、そのような本の中では一番平易なのではないかと思われる。

 

アーレントの思想を紹介した本としては、講談社現代新書の『今こそアーレントを読み直す』が一番わかりやすいと思う。

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

  • 作者:仲正 昌樹
  • 発売日: 2009/05/19
  • メディア: 新書
 

おわりに

少し個人的にこの本の不満を述べれば、ハンナ・アーレント死後の彼女への評価の変遷についてが書かれていなかったことである。

だが、それは他の本でカバーしようと思う。

ちくま新書はかなり多くのハンナ・アレント本を出しており、一度すべての本を比較してみる価値があると思っている。

▼個人的にアーレントアイヒマンへの論考(「エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」)は、遠藤周作の『海と毒薬』で描かれたテーマにも近しいものがあると思っている。

moriishi-s.hatenablog.com

海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)