不眠の子守唄

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私も聖人ではない。-相模原事件被告の死刑判決に寄せてー

私も聖人ではない

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photo by Unsplash

相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告に、死刑判決が言い渡された。

事件以降、植松被告に影響されて、障害を持った方々に「生産性」がないとする優生思想のような考えに賛同する人々が一定数表出したのは残念に思った。

 

しかし、私はこのような考えに断じて賛同することはないが、思い返してみると、私自身も障害を持った方々に対して「聖人」にはなれなかった。

 

私は、通っていた学校や大学でのプログラムの関係上、障害を持つ人々と比較的多く接したことがある。基本的には、彼ら彼女らに対し、親身に接することができたと思っている。

 

だが、数点、自分に対して悩むことがあった。

 

一つには、深層心理で自分は障害者を見下しているのではないかという感覚である。

 

「世話をするー世話をされる」という関係性がある以上、健常者と障害者の間のパワーバランスは均衡でない。これは介護が必要な高齢者などにしても同じである。

だが、その不均衡な力関係の中で、どのように相手に接することが正しいのかは、たかだか学生の心の中では折り合いをつけることができなかった。

 

もう一つは、私の中で、障害を持ったある方の行動が、どうしても許せなかったことである。

 

知的障害を持った方は、通常なら考えられない行動を起こしてしまうことがある。私もたいていは、それに怒りの感情を抱くこともなかった。

しかし、どうしても一つだけ許せない行動があった。

 

「破壊」行動である。

 

私は、モノに愛着を抱いてしまうタイプで、いわゆる断捨離などができない性格である。そんな私が最も嫌うのは、「モノの破壊」なのである。ある一人の「破壊」に楽しみを見出しているーというように私は思ったー障害を持った方に出会った時、私はその方を理解することを放棄した。

 

本来であれば、「破壊」が行動原理になってしまった理由を考え、その傾向を治す方向性に持っていく努力をするべきだったのだろう(もっとも私は一学生に過ぎなかったが)。

だが、私はその時、破壊行動の原因を「障害」と割り切り、同じ人間と理解しようとしなかった。自分と「障害者」の間に、壁を作ってしまったのである。自分の中で「壁」を作ってしまったことを、今でも後悔している。 

 

私の抱いてしまった感情は、悪なのだろうか。

 

 

植松被告も、初めは小さな「怒り」だったのだろう。

その点は、私と同じなのかもしれない。

 

私は聖人ではない。

 

だが、私はそんな小さなきっかけで、人の道を踏み外すことはしたくない。そのために必要なのは、自分の中で一つの確固たる倫理観を持つことではないかと考え、倫理学者などの残した叡智に触れることで模索している。

 

(文字数:1100字くらい)
 

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